自己中心性と夢

これからの社会へのかかわり方を模索していたのだけど、どういう基準で生きていくべきかを決めなければ決定は不可能のように思えた。頭をガツンと殴られたような出来事があってから、いつもやっているよりもかなり大幅に、考え方や私生活、仕事に至るまで変化させなければならないと感じて、特に人について思索するようになったことがきっかけだ。

 

昔、宮崎駿の「風立ちぬ」という作品をみた。ある夜、木々に囲まれた邸宅の和室に敷かれた布団に、肺結核を患った菜穂子が横になっていた。主人公であり彼女の夫でもある堀越二郎はその横であぐらをかき、熱心に仕事に打ち込んでいた。菜穂子は具合が悪くて横になりながらも二郎に声をかけ、二郎は「きれいだよ」と返答するが、一瞥すらすることなく、飛行機の図面を描く手を止めることもない。作中における彼の生き方は一様に「うつくしい飛行機を設計する」ということに徹底して向けられていることが、こうしたシーンの連なりで表現されていた。続くシーンでは、肺結核に苦しむ菜穂子の横で、二郎が喫煙する映像が映し出される。喫煙自体は二人の間では了解されていたこととはいえ、多くの視聴者は、菜穂子が二郎にとって「都合のいい女」という印象を受けて不快に感じたようだ。こうした二郎の態度については、婚礼の仲人であり上司でもある黒川が「君のは愛情ではなくエゴイズムじゃないのか」と視聴者を代弁して批評していたが、相対する二郎は神妙な表情を浮かべただけで、葛藤するシーンは作中で描かれていない。

 

このような二郎の自己中心性は、前述したように夢をまっすぐに追い求める姿の一部として描かれていたように思う。例えば、妹の加代と笹取りにいくという約束をすっかり忘れてしまった二郎は、加代に叱責されることになるが、反省する素振りはごめんという謝罪のみで、次の約束を取り付けるわけでもなく、すぐに理想的な飛行機について思いを巡らせる。仕事の帰路で腹を空かせている子どもを見つけた二郎は、シベリアというカステラのような洋菓子を与えようとするが、子どもたちに拒否され、同僚の本庄に「偽善だ」と指摘されてしまう。本庄は「飛行機なぞを設計する予算があれば、日本中の飢えた子どもたちに菓子を食わせてやれるだろう」と続け、それに対して二郎は「矛盾だ」と反駁して見せるが、その後のシーンにおいてそうした議論が持ち出されることはなく、次のカットでは二人がドイツの最新鋭の飛行機を見学する場面が唐突として画面に映し出される。二郎の人生は、どこまで行ってもうつくしい飛行機をつくるためであり、他者が介在する余地はない。ラストシーンでは、目標を成し遂げたであろう二郎の夢に、すでに肺結核で亡くなってしまった菜穂子を登場させ、「あなた、生きて」というセリフを吐かせたうえで、涙し、一つの美しい思い出として昇華してしまう。そうした薄情さは、幼少期の二郎がいじめられている子どもを果敢に救ったり、自身の作る飛行機が殺戮のために生み出されることを十分に理解した上で設計に携わったりするなど道徳感を持ち合わせているという描写によって、殊更に強調されていると考える。

 

当時の僕は、多くの人が持ったであろう感想のように「二郎は素晴らしい飛行機を作ったかもしれないが、他者を真に愛することなどできなかった」というニヒリズムのような結論を導くことはなかった。二郎にとっての菜穂子が都合のいい女だと批判されているのと同様に、病弱な菜穂子にとっての二郎もまた都合のいい男だったのだから、二郎の配慮不足なところは指摘されてしかるべきだとしても、むしろ2人はいい関係だったのではないか、現実そんなもんじゃね?と思ったりしていた。今では、こうした視野の狭い考えは少し違うかもしれないなと思うし、映画の冒頭で二郎が八百屋の出っ歯のおやじとすれ違ったシーンに違和感を覚えることができるようになった。出っ歯で鋭い眼光をもつ親父は、映画の始まりできっとした表情で段差に座り込んでいた。おそらくさまざまな経験によって刻まれたであろう深い皺をさらに強調させるかのようなしかめっつらを浮かべていた。それほどまでに特徴的な風貌をした八百屋の親父を、二郎がまったく気に止めることもなく通り過ぎていくシーンを見て、思い返せば二郎と菜穂子の関係について感じたように、人間の夢や思考は完全に交わることのないのだろうということを理解するだけだった。それにもかかわらず映画の移りゆく激動に魅せられたり、挙げ句の果てには菜穂子の訃報に号泣したりして、知らず知らずのうちに、そのような矛盾をそっと頭の隅に追いやってしまっていた。こういう感じだったので、当時はサラリーマン人生の頂点を目指したいと奮闘しているだけで毎日が充実していたのだと思う。

 

今になって、色んな出来事があって、人も生命も自然も無意識もそれらを他者と呼ぶのであれば他者に欠いた思考ばかり行っていたのだということを自覚するようになった。それは、菜穂子や加代がかわいそうだという感情について考えてみるようになったというよりも(最初からかわいそうだとは思っていた)、たとえばタコに変身したとして、10本の手足で触れるものの味を知覚したり、局所的な造形を感じ取ることはできるようになったとしても、その情報を統合することはできないと言った方が近いかもしれない。つまり、目や鼻や口や脳といったあらゆる認知機能が、ある種リアルな世界を感知していながらも、それらは自身の経験則による認知であるだけで、本質的に他者を含んだ世界をしっかりと脳内に構築しようとしていないことに、恥ずかしながらこの年にして気づいたのだ。あるいは、思考がタコ化していたので、いわば「自律的に」二郎や菜穂子の自己中心性を理解した上で、彼らの感情について多少なりとも思いをめぐらせることはあったとしても、結論として「理解したつもりになってはならない」という考えに留まり、人を真正面から見ようとしてこなかっただけなのかもしれないが、どうなのだろうか。わからないけれど、 そうした心境の変化によって、相対的に自分が取り組むことに興味が薄くなり、完全とはいえないまでも、身近な人たちや物事に注意を向けることできるようになったのではないかと思う。なので、かつては魑魅魍魎集まる証券でトップティアに属していたいと考えて過ごしていたが、今はお世話になった人との関係が大切だ。そして、今後の計画を変えなければいけないと感じている。これからの大まかな目標については次のようにしたいと思う。

 

大切だと思うこと、大切にできるということ。事業、家族や友人、人生のバッファ、慈善について。

(つづく)